SSブログ
中国東北部、旧満州の旅(15年6月) ブログトップ
前の10件 | 次の10件

旅順口区国防教育基地 二十八センチ砲弾 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

兵舎跡に隣接する資料館で旅順攻囲戦の資料をまとめた資料館があります。

いわゆる日本の大陸侵略の先駆けとも取れる旅順攻囲戦の紹介なので日本批判ももちろんあります。
S0101124.JPG
S0101125.JPG
S0101126.JPG
S0101127.JPG
S0101128.JPG
S0101136.JPG
S0101137.JPG
S0101138.JPG
ここから出土した不発弾の展示。この時代もまだ信管の開発が未発達で不発弾も多かった様子。
S0101139.JPG
S0101140.JPG
これが旅順攻囲戦で名をはせた二十八センチ砲から発射された砲弾の不発弾。重量220kg。専用のクレーンで装填した。
日本は対船舶用を想定していたので柔らかい土に着弾すると信管が反応しない場合もあったとか。旅順のロシア軍は不発弾を掘り起こして同サイズのクルップ社製榴弾砲で打ち返してきた。
S0101141.JPG
ogawa_russo-jp_collo_p10_82-1.jpg
S0101142.JPG
S0101143.JPG
うわさの信管。
S0101153.JPG
日本軍を悩ませていたロシア軍のマキシム機関銃(英製)。日本軍はこの未知の兵器に対して大損害を受けるが、それは塹壕を掘ることで対抗した。10年後のヨーロッパ、第一次世界大戦でも同じようなことが起きる。突撃による奇襲攻撃はなくなり、夜襲や砲撃支援の後に総攻撃の作戦が練られた。
S0101154.JPG
S0101155.JPG
S0101156.JPG
S0101159.JPG
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

コンドラチェンコ少将の石碑 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

少し脱線してましたが続けます。もう4年前のことなんだね。
S0101120.JPG
東鶏冠山北堡塁ロシア軍宿舎の近くに敵将コンドラチェンコ戦死の場所という石碑がありました。日露戦争後の1905年から太平洋戦争終結の1945年まで朝鮮半島と、この遼東半島、大連までは日本の本土と同じような扱いを受けていたことから観光地として整備されていた様子。
Kondratenko.jpg
ロマン・コンドラチェンコは帝政ロシア軍少将。ウクライナ人。実質、旅順要塞司令官でスミルノフ中将の部下。旅順要塞の指揮官はステッセリ中将だったが要塞建築の権限を一任されたことでより堅実な防衛陣地を作ることができた。要塞建築のプロ。
色白長身の美男子でステッセリの夫人にいたく気に入られ、ステッセリからは二人だけにしないように幕僚に注意勧告したとのこと。独断専行の傾向があるが、勇敢にも自ら前線で陣頭指揮をとり、部下からも慕われていた。
二百三高地が日本軍に落ちた1905年12月5日の後も日本軍の砲撃に苦しむ旅順湾の将兵を励まし続けたという。そして12月15日、東鶏冠山北堡塁宿舎にて将兵に勲章の進呈をしていた時に日本軍の二十八センチ砲の直撃を受けて戦死。コンドラチェンコの居場所は中国人スパイの情報によるものだというガイドの説明もあったが諸説あり。
800px-Anatoly-stessel.jpg
アナトーリイ・ステッセリ。水市営で乃木将軍と降伏会見をした帝政ロシア中将。旅順要塞司令官であるが、満州軍総司令官クロパトキン大将から任命された後任のスミルノフ中将に地位を明け渡さず、新設されるロシア関東軍の司令官に就任。結果的にスミルノフに司令官の地位を明け渡す。規律に厳しい官僚タイプ。プライドが高く縄張り意識が強い、スミルノフとの確執から命令の無視、決断力に乏しいが予備兵力1万人弾薬食糧も十分な旅順戦力を残して徹底抗戦を唱えていたスミルノフ中将と対立して独断で降伏会見を行った。戦力を4分の1にしてコンドラチェンコの戦死に残存兵力の疲労と士気の低さに降伏の考えは妥当という判断もある。
降伏会見では乃木将軍の息子二人の戦死には哀悼の意を示し、騎士道精神に則った行動は称賛されている。
Smirnov_K_N-1.jpg
コンスタンティン・スミルノフ。ステッセリの後任で旅順要塞司令官、中将。ステッセリとの派閥争いで混乱したが、二百三高地日本軍占領後も残存兵力で徹底抗戦を唱え、戦後はステッセリとその部下アレクサンドル・フォークの職務怠慢で非難する発表をするも、フォークから決闘を申し込まれ腹部を負傷。

ロシア軍も派閥争いからあまりいい印象がない。
S0101112.JPG
S0101113.JPG
S0101115.JPG
S0101116.JPG
S0101118.JPG
S0101119.JPG
S0101122.JPG
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

日露戦争、旅順攻囲戦 古写真 その2 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

閲覧注意。このページには遺体写真が載っています。
0_e6a93_97859a59_XXXL.jpg
1904年冬。二百三高地に日本軍の砲撃が着弾。
35008_900.jpg
日本軍側から二百三高地。
36896_900.jpg
二十八センチ砲を発射。旅順攻囲戦には18門が投入され延べ16,940発を発射。弾速は遅く、発射された弾丸が肉眼で見えた。不発も多かった様子。
russo-japanese-war-04.jpg
二百三高地の中腹で。同朋の死に祈りを捧げるロシア兵。
0f6622ded8a5.jpg
旅順港では戦没者の遺体収容が進む。ロシア軍の鉄壁の要塞都市も連日連夜の砲撃には疲弊しきっていた。
84be345df52b.jpg
109841-2e8f265afad8996f8177dae04d93f7b3_jpg_pagespeed_ce_Lo8mWvrYmW.jpg
b51a01ef180c.gif
J2wdy5fiZzE.jpg
221219-f381700f399b7814266162c4769795dd_jpg_pagespeed_ce_IgutX4InFN.jpg
109892-e5056b4a1a0ed01ad4390fd921519774.jpg
221223-c58150dfa750dbf1ee17792a4f206ae6_jpg_pagespeed_ce_HeYJSH9CEO.jpg
221224-b7be121e72fbfbe61aa732b3643c1560_jpg_pagespeed_ce_bboiZZo-L-.jpg
221225-cc745622a28c431dc4354df076dbb936_jpg_pagespeed_ce_CJCo2xgrqA.jpg
221227-fe5bf1d4f96f53435791d57475b4d2a5_jpg_pagespeed_ce_WwOka10cas.jpg
221230-f6e3b0ed1ca95a2d13e84425f86f5d71_jpg_pagespeed_ce_-62-bV5Q0Z.jpg
ba46fda95b6c.jpg
3e0eb1051346.jpg
負傷者は自転車と担架を繋げて運ぶ。
221217-85e81cbece161256cd3cfac7c0928896.jpg
221216-bebe5e8ad2f65ea346ceaadc680d8522.jpg
221218-2ac0fd1fe21643e08315cd2e6ffd9136.jpg
中国人労働者を使って負傷者を運ぶ。
221214-b392a7e4c7f4fb36d25c93edc50f0e4e.jpg
109939-9066ca6bb911304cf445310e29ddef9d.jpg
109847-e289ed634c236a9dc64253a492fc705c_jpg_pagespeed_ce_4ontY0wjap.jpg
78a8a5af8e2e.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

日露戦争、旅順攻囲戦 古写真 その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

ブログ放置して申し訳ありません。仕事が多忙で中々更新できませんでした。

ロシア軍からみた日露戦争の写真を色々集めておりました。主に旅順港あたりの古写真です。著作権的に大丈夫かな?

正確な時期や場所などはわかりませんが、独自の解釈と推理から古写真の解説とキャプションをつけていきます。資料の参考にはしないでください。
0_e6a6d_51b4a1f3_XXXL.jpg
1904年12月、旅順港周辺は日本軍に包囲されて、帝政ロシア軍は強固な陣地を構築していたが、長期に渡る攻防戦により、両軍疲弊していた。ロシア軍は塹壕を掘って前線を維持。日本軍の砲撃が近くに着弾。
0_e6a8b_9a8ac8be_XXXL.jpg
ロシア軍は日本軍の総攻撃に備えて前線の塹壕に張り付く。時たま来る砲撃には壕に隠れるしかない。食事の風景。
0_e6a6b_40bfbb8c_XXXL.jpg
ロシア軍の大砲。旅順港外側に向いていたのに陸側に向けるようになった。よく見ると砲身は丸太。壊れたのか偽装している。
0_e6a62_14a9fba9_XXXL.jpg
塹壕から顔を出すと狙われるのであまり高い姿勢はできない。
109896-d18c63ace5f835c9b8e6bb06788455ee.jpg
ロシア軍の大砲。形は日本軍の二十八センチ砲そっくりだが、少し砲の規格が小さい榴弾砲。
それもそのはず、二十八センチ砲もドイツのクルップ社製の砲を国産化したのに始まり、
ロシア軍もこのクルップ社製砲を輸入して配備していた。
旅順港攻略戦で名をはせた二十八センチ砲は不発も多く、陣地に着弾した砲弾をロシア軍が回収して打ち返したという話もある。
5d1a19d33766325dcc06203d04a78b12.jpg
109898-01a036ff58357bb1b471f4f73efaebc1.jpg
大砲の横でサモワール(ロシア独特の湯沸かし器)を沸かす。
0_e6a99_a4100253_XXXL.jpg
0_e6aa9_c0b852e4_XXXL.jpg
0_e6aae_d6f0a5ce_XXXL.jpg
0_e6a90_1b363be7_XXXL.jpg
0_e6a70_efd06913_XXXL.jpg
写真奥にあるのが東鶏冠山北堡塁の兵舎だと思われる。
憶測だが望台から撮った写真。
109890-9b927f93c65ddc0dc8c727b123122896.jpg
日本軍の動向を監視中。
109891-f84bbbc72257b84a739503e206280859.jpg
日本軍は総攻撃の準備に近くまで塹壕を掘り進んでいた。時たま顔を出す日本兵に狙撃をする兵士。
109936-5be4a2f44dab62fbdc6fecffa215cc2a.jpg
0_e6aa7_ed5fed92_XXXL.jpg
前線維持の為に防衛陣地に派遣される兵隊。
109894-227df2473466dddb9ff124431e45c8e5.jpg
109889-c3805fd0a07dba9afffc3237ccec0dfc.jpg
109897-3c1ba9cd3e56be2857723d9a251a6d08.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

旅順:東鶏冠山北堡塁跡 その3 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

すこし時間を空けてしまいすみません。

大連、旅順、東鶏冠山、北堡塁跡の続きです。
S0101092.JPG
東鶏冠山を受け持った第11師団の攻撃時系列。

1904年8月19日~24日、第一回総攻撃、外壕発見。外壕に躍り込んだ隊は全員死亡。
10月30日~31日、第二回総攻撃。第22連隊(愛媛の部隊)、一角を占領も壊滅。坑道作業に転換。
11月26日、第三回攻撃、胸塔二カ所を爆破。第22連隊が突入も白兵戦で多くの犠牲を出す。占領地の維持ができなかった。
12月10日、総攻撃開始。
12月15日、勲章授与の為に兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が砲撃で戦死。中にいた中国人スパイの情報だった。
12月18日、胸壁に仕掛けた2トンの爆薬を爆破。胸壁は崩壊。ロシア軍は僅か守備兵150名だったが勇敢に反撃。第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。
S0101093.JPG
S0101094.JPG
S0101095.JPG
S0101096.JPG
記念写真用の機関銃。
S0101099.JPG
S0101100.JPG
ロシア軍の大砲、実物大?の模型。よく似た大砲でM1877 107mmカノン砲がある。
S0101101.JPG
S0101102.JPG
S0101103.JPG
S0101104.JPG
ここから東鶏冠山北堡塁の兵舎の画像。
兵舎は厚いべトン(ドイツ語でコンクリート)で覆われて200人規模の人員を守ることができた。しかしながらここ以外にも前線はあるし、日本軍の夜襲もあるし、全員がここには入れず、露天の塹壕か小さな詰所で寝泊まりしていたことと思う。二階立てて中間に板が貼ってあったという。
S0101105.JPG
S0101107.JPG
S0101108.JPG
S0101109.JPG
S0101110.JPG
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

旅順:東鶏冠山北堡塁跡 その2 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

東鶏冠山堡塁攻略を任されたのは第2軍から第3軍に編入された第11師団。香川県、善通寺に司令部を持つ四国の師団だった。
800px-Map_of_the_Encirclement_of_Port_Arthur.jpgwikipediaより画像。
S0101073.JPG
外側にあった日本軍の爆破口跡。

第一回総攻撃(1904年8月19日~24日)8月18日深夜から二日間の砲撃で東鶏冠山を含め、ロシア軍の各所堡塁は日本軍から大損害を被る。21日より総攻撃を開始するが北堡塁の外壕を発見したのがこの直前のこと。日本軍は北堡塁が二重構造であったことに気づいていなかった。
S0101074.JPG
S0101075.JPG
S0101077.JPG
S0101078.JPG
S0101079.JPG
S0101080.JPG
S0101081.JPG
S0101082.JPG
第一回総攻撃直前に外壕があることがわかった日本軍だが、内部構造まではわかっていなかった。突撃隊は上からの攻撃を受けながら2階から落ちたようにこの外壕に落ちた。その高さ4mはあるだろう。足を骨折するかそのまま死んだ兵隊も多かったことと思う。しかしその後は外壕の内側から、上からも攻撃をされてでロシア軍は第一回、第二回と総攻撃を防衛する。東鶏冠山北堡塁だけで8000人の死者を出した。
S0101083.JPG
S0101084.JPG
ロシア軍の鉄壁の堡塁を築いたコンクリートだが、実際は鉄筋コンクリートの技術はまだこの当時なく、旅順の海岸の砂利や泥土をコンクリートと混ぜて作っただけの脆いつくり。建設は中国人労働者を無賃で強制労働させて作らせたとのこと。
S0101085.JPG
S0101088.JPG
S0101089.JPG
S0101090.JPG
写真家によって(どこの国の人かメモを忘れた。)最近になって偶然発見されたという女性の横顔。日本軍の地下坑道爆破の瓦礫と偶然が重なってできた。
S0101091.JPG

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

旅順:東鶏冠山北堡塁跡 その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

大連のホテルで一泊、この日が旅行最後になりました。
ここから旅順:東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほうるい)跡へ。日露戦争、旅順攻略の激戦地です。
S0101048.JPG
S0101049.JPG
S0101052.JPG
S0101053.JPG
S0101054.JPG
S0101055.JPG
S0101056.JPG
ここから駐車場。日露両軍のつわものどもが夢のあと。114年前のできごと。
S0101057.JPG
駐車場にあった露店のお土産屋さん。ここにはロシア人も中国人も観光に来ないのでもっぱら日本人しか来ないらしい。

ここからロシアのWEBサイトから無断掲載発見した日露戦争当時の写真を交互に載せていきます。ロシア語検索で色々見つかった画像の中から東鶏冠山、二百三高地と、ひとくくりに旅順攻囲戦「Порт-Артура」(二百三高地が英語で「Port Arther」)と表記されているので正確にはどこがどこなのかわかりません。
狭い地域に帝政ロシア軍守備隊5万。乃木将軍率いる第三軍5万が4か月に渡って死闘を繰り広げた。

00b659ad79af.jpg
向こうに見える特徴的な三つの山系。旅順攻囲戦初期かと推測。
109901-bfa9004dc372b871d1f1e3f9cf3440b6.jpg
S0101058.JPG
公園入口。日本軍陣地側から歩きます。
S0101059.JPG
S0101060.JPG
東鶏冠山は旅順要塞の中でも三大永久要塞と謳われた。周囲は敵の砲撃に屈しない厚いコンクリートで覆われ、外側の隠れた銃眼から一斉射撃も可能と、敵の攻撃に耐えられる陣地が組まれていた。
S0101061.JPG
塹壕の跡、114年経っても残る。
S0101062.JPG
S0101064.JPG
観光地あるあるの記念写真を撮らせてお金を支払う商人。チープな機関銃の模型と一緒に塹壕での記念写真を撮るというもの。
S0101065.JPG
S0101067.JPG
S0101068.JPG
日本軍の爆破口跡。べトン(ドイツ語:コンクリート)でガチガチに固めた要塞に突破口を開こうと日本軍は塹壕を掘り進め、地下坑道を掘って2トンの爆薬を仕掛けて爆破。ようやく占領できた。
第三回総攻撃の始まり、1904年11月26日の爆破口がここだそうだ。
S0101070.JPG
S0101071.JPG
S0101072.JPG
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

丹東:虎山長城 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

S0100999.JPG
万里の長城の東の起点、虎山長城を登ってみる。
S0101000.JPG
S0101001.JPG
S0101002.JPG
S0101004.JPG
S0101005.JPG
S0101006.JPG
S0101007.JPG
S0101008.JPG
S0101009.JPG
S0101010.JPG
S0101011.JPG
S0101012.JPG
S0101013.JPG
S0101014.JPG
S0101015.JPG
S0101016.JPG
S0101017.JPG
S0101018.JPG
S0101019.JPG
S0101029.JPG
バスに乗り込んで今度は大連に。
S0101030.JPG
S0101037.JPG
S0101042.JPG
S0101043.JPG
S0101044.JPG
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

丹東:虎山長城、一歩跨 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

S0100949.JPG
バスに乗って鴨緑江の上流をさかのぼってみる。対岸は北朝鮮だが喉かな農村の風景が広がる。
S0100954.JPG
朝鮮戦争混乱期の橋かな?橋桁がない。
S0100958.JPG
S0100960.JPG
虎山長城の入り口。観光名所なので広々とした駐車場がある。
万里の長城の東の突端がここ。
Wikipedia:虎山長城
S0100961.JPG
S0100964.JPG
S0100965.JPG
入り口から1.5km程歩く。
S0100969.JPG
S0100970.JPG
S0100971.JPG
S0100972.JPG
S0100973.JPG
到着。
S0100974.JPG
S0100975.JPG
S0100976.JPG
アカシアの花が咲いている。
S0100979.JPG
S0100980.JPG
ここから一歩跨。虎山長城を越えてすぐ奥にある。
S0100981.JPG
歩いていると隣に畑があるのだが、ここまでは私有地なのか?
S0100982.JPG
途中、人民解放軍の兵隊さんが国境警備に当たっていた。お土産屋の主人と話し込んだり和やか。当時、北朝鮮兵士が越境して中国で犯罪を犯す事件があったりしていたのだが。
S0100988.JPG
S0100983.JPG
国境に関する注意事項が書いてある。物の交換をしてはならない。鳩を飛ばさない。国境監視の兵隊にカメラを向けてはならない。など。
S0100985.JPG
ここが一歩跨。北朝鮮国境でも一番近いところ。その幅10数m程くらいの川幅しかない。
S0100986.JPG
S0100987.JPG
S0100989.JPG
向こうの方に国境監視の見張り台が見える。なんとなく人影が見えるが、向こうはここから越境者や、物を投げる人がいないかの監視をしている。
S0100992.JPG
S0100993.JPG
S0100994.JPG
ヘビは国境など関係ないように越境している。
S0100995.JPG
S0100996.JPG
S0100997.JPG

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

丹東:鴨緑江断橋 その3 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

S0100905.JPG
ここから鴨緑江断橋を渡ってみる。日清、日露より朝鮮戦争とその歴史を感じさせてくれる。
S0100897.JPG
袂(たもと)にあるトーチカのようなもの。銃眼のようなものもあるし日本領時代の物か?
S0100898.JPG
対空砲、朝鮮戦争の頃の物と思う。ボフォース40mm機関砲?
S0100900.JPG
S0100901.JPG
S0100908.JPG
朝鮮戦争は中華人民共和国にとって建国初の大掛かりな対外軍派遣の場となった。国境すぐ近くに西側の国ができるかどうかの脅威が高かった為だ。
S0100907.JPG
S0100906.JPG
線路は外されて遊歩道になっている。
S0100909.JPG
S0100910.JPG
S0100912.JPG
S0100914.JPG
S0100915.JPG
S0100916.JPG
S0100917.JPG
S0100919.JPG
S0100920.JPG
S0100921.JPG
破壊された橋の突端までついた。橋は当初、帆船用に回転して航路を開ける機構があった。
S0100924.JPG
朝鮮戦争時には韓国軍がここ鴨緑江まで進軍したというが、中国軍の反撃をくらう。
S0100925.JPG
S0100926.JPG
破壊されたときの爆弾の模型。
S0100927.JPG
S0100928.JPG
S0100929.JPG
S0100930.JPG
S0100931.JPG
S0100932.JPG
S0100935.JPG
S0100936.JPG
丁度、隣の第二江断橋を北朝鮮行の列車が通る。
S0100939.JPG
S0100941.JPG
S0100942.JPG
S0100943.JPG
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行
前の10件 | 次の10件 中国東北部、旧満州の旅(15年6月) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。