旅順口区国防教育基地 二十八センチ砲弾 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
兵舎跡に隣接する資料館で旅順攻囲戦の資料をまとめた資料館があります。
いわゆる日本の大陸侵略の先駆けとも取れる旅順攻囲戦の紹介なので日本批判ももちろんあります。
ここから出土した不発弾の展示。この時代もまだ信管の開発が未発達で不発弾も多かった様子。
これが旅順攻囲戦で名をはせた二十八センチ砲から発射された砲弾の不発弾。重量220kg。専用のクレーンで装填した。
日本は対船舶用を想定していたので柔らかい土に着弾すると信管が反応しない場合もあったとか。旅順のロシア軍は不発弾を掘り起こして同サイズのクルップ社製榴弾砲で打ち返してきた。
うわさの信管。
日本軍を悩ませていたロシア軍のマキシム機関銃(英製)。日本軍はこの未知の兵器に対して大損害を受けるが、それは塹壕を掘ることで対抗した。10年後のヨーロッパ、第一次世界大戦でも同じようなことが起きる。突撃による奇襲攻撃はなくなり、夜襲や砲撃支援の後に総攻撃の作戦が練られた。
いわゆる日本の大陸侵略の先駆けとも取れる旅順攻囲戦の紹介なので日本批判ももちろんあります。
ここから出土した不発弾の展示。この時代もまだ信管の開発が未発達で不発弾も多かった様子。
これが旅順攻囲戦で名をはせた二十八センチ砲から発射された砲弾の不発弾。重量220kg。専用のクレーンで装填した。
日本は対船舶用を想定していたので柔らかい土に着弾すると信管が反応しない場合もあったとか。旅順のロシア軍は不発弾を掘り起こして同サイズのクルップ社製榴弾砲で打ち返してきた。
うわさの信管。
日本軍を悩ませていたロシア軍のマキシム機関銃(英製)。日本軍はこの未知の兵器に対して大損害を受けるが、それは塹壕を掘ることで対抗した。10年後のヨーロッパ、第一次世界大戦でも同じようなことが起きる。突撃による奇襲攻撃はなくなり、夜襲や砲撃支援の後に総攻撃の作戦が練られた。
コンドラチェンコ少将の石碑 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
少し脱線してましたが続けます。もう4年前のことなんだね。
東鶏冠山北堡塁ロシア軍宿舎の近くに敵将コンドラチェンコ戦死の場所という石碑がありました。日露戦争後の1905年から太平洋戦争終結の1945年まで朝鮮半島と、この遼東半島、大連までは日本の本土と同じような扱いを受けていたことから観光地として整備されていた様子。
ロマン・コンドラチェンコは帝政ロシア軍少将。ウクライナ人。実質、旅順要塞司令官でスミルノフ中将の部下。旅順要塞の指揮官はステッセリ中将だったが要塞建築の権限を一任されたことでより堅実な防衛陣地を作ることができた。要塞建築のプロ。
色白長身の美男子でステッセリの夫人にいたく気に入られ、ステッセリからは二人だけにしないように幕僚に注意勧告したとのこと。独断専行の傾向があるが、勇敢にも自ら前線で陣頭指揮をとり、部下からも慕われていた。
二百三高地が日本軍に落ちた1905年12月5日の後も日本軍の砲撃に苦しむ旅順湾の将兵を励まし続けたという。そして12月15日、東鶏冠山北堡塁宿舎にて将兵に勲章の進呈をしていた時に日本軍の二十八センチ砲の直撃を受けて戦死。コンドラチェンコの居場所は中国人スパイの情報によるものだというガイドの説明もあったが諸説あり。
アナトーリイ・ステッセリ。水市営で乃木将軍と降伏会見をした帝政ロシア中将。旅順要塞司令官であるが、満州軍総司令官クロパトキン大将から任命された後任のスミルノフ中将に地位を明け渡さず、新設されるロシア関東軍の司令官に就任。結果的にスミルノフに司令官の地位を明け渡す。規律に厳しい官僚タイプ。プライドが高く縄張り意識が強い、スミルノフとの確執から命令の無視、決断力に乏しいが予備兵力1万人弾薬食糧も十分な旅順戦力を残して徹底抗戦を唱えていたスミルノフ中将と対立して独断で降伏会見を行った。戦力を4分の1にしてコンドラチェンコの戦死に残存兵力の疲労と士気の低さに降伏の考えは妥当という判断もある。
降伏会見では乃木将軍の息子二人の戦死には哀悼の意を示し、騎士道精神に則った行動は称賛されている。
コンスタンティン・スミルノフ。ステッセリの後任で旅順要塞司令官、中将。ステッセリとの派閥争いで混乱したが、二百三高地日本軍占領後も残存兵力で徹底抗戦を唱え、戦後はステッセリとその部下アレクサンドル・フォークの職務怠慢で非難する発表をするも、フォークから決闘を申し込まれ腹部を負傷。
ロシア軍も派閥争いからあまりいい印象がない。
東鶏冠山北堡塁ロシア軍宿舎の近くに敵将コンドラチェンコ戦死の場所という石碑がありました。日露戦争後の1905年から太平洋戦争終結の1945年まで朝鮮半島と、この遼東半島、大連までは日本の本土と同じような扱いを受けていたことから観光地として整備されていた様子。
ロマン・コンドラチェンコは帝政ロシア軍少将。ウクライナ人。実質、旅順要塞司令官でスミルノフ中将の部下。旅順要塞の指揮官はステッセリ中将だったが要塞建築の権限を一任されたことでより堅実な防衛陣地を作ることができた。要塞建築のプロ。
色白長身の美男子でステッセリの夫人にいたく気に入られ、ステッセリからは二人だけにしないように幕僚に注意勧告したとのこと。独断専行の傾向があるが、勇敢にも自ら前線で陣頭指揮をとり、部下からも慕われていた。
二百三高地が日本軍に落ちた1905年12月5日の後も日本軍の砲撃に苦しむ旅順湾の将兵を励まし続けたという。そして12月15日、東鶏冠山北堡塁宿舎にて将兵に勲章の進呈をしていた時に日本軍の二十八センチ砲の直撃を受けて戦死。コンドラチェンコの居場所は中国人スパイの情報によるものだというガイドの説明もあったが諸説あり。
アナトーリイ・ステッセリ。水市営で乃木将軍と降伏会見をした帝政ロシア中将。旅順要塞司令官であるが、満州軍総司令官クロパトキン大将から任命された後任のスミルノフ中将に地位を明け渡さず、新設されるロシア関東軍の司令官に就任。結果的にスミルノフに司令官の地位を明け渡す。規律に厳しい官僚タイプ。プライドが高く縄張り意識が強い、スミルノフとの確執から命令の無視、決断力に乏しいが予備兵力1万人弾薬食糧も十分な旅順戦力を残して徹底抗戦を唱えていたスミルノフ中将と対立して独断で降伏会見を行った。戦力を4分の1にしてコンドラチェンコの戦死に残存兵力の疲労と士気の低さに降伏の考えは妥当という判断もある。
降伏会見では乃木将軍の息子二人の戦死には哀悼の意を示し、騎士道精神に則った行動は称賛されている。
コンスタンティン・スミルノフ。ステッセリの後任で旅順要塞司令官、中将。ステッセリとの派閥争いで混乱したが、二百三高地日本軍占領後も残存兵力で徹底抗戦を唱え、戦後はステッセリとその部下アレクサンドル・フォークの職務怠慢で非難する発表をするも、フォークから決闘を申し込まれ腹部を負傷。
ロシア軍も派閥争いからあまりいい印象がない。
日露戦争、旅順攻囲戦 古写真 その2 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
日露戦争、旅順攻囲戦 古写真 その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
ブログ放置して申し訳ありません。仕事が多忙で中々更新できませんでした。
ロシア軍からみた日露戦争の写真を色々集めておりました。主に旅順港あたりの古写真です。著作権的に大丈夫かな?
正確な時期や場所などはわかりませんが、独自の解釈と推理から古写真の解説とキャプションをつけていきます。資料の参考にはしないでください。
1904年12月、旅順港周辺は日本軍に包囲されて、帝政ロシア軍は強固な陣地を構築していたが、長期に渡る攻防戦により、両軍疲弊していた。ロシア軍は塹壕を掘って前線を維持。日本軍の砲撃が近くに着弾。
ロシア軍は日本軍の総攻撃に備えて前線の塹壕に張り付く。時たま来る砲撃には壕に隠れるしかない。食事の風景。
ロシア軍の大砲。旅順港外側に向いていたのに陸側に向けるようになった。よく見ると砲身は丸太。壊れたのか偽装している。
塹壕から顔を出すと狙われるのであまり高い姿勢はできない。
ロシア軍の大砲。形は日本軍の二十八センチ砲そっくりだが、少し砲の規格が小さい榴弾砲。
それもそのはず、二十八センチ砲もドイツのクルップ社製の砲を国産化したのに始まり、
ロシア軍もこのクルップ社製砲を輸入して配備していた。
旅順港攻略戦で名をはせた二十八センチ砲は不発も多く、陣地に着弾した砲弾をロシア軍が回収して打ち返したという話もある。
大砲の横でサモワール(ロシア独特の湯沸かし器)を沸かす。
写真奥にあるのが東鶏冠山北堡塁の兵舎だと思われる。
憶測だが望台から撮った写真。
日本軍の動向を監視中。
日本軍は総攻撃の準備に近くまで塹壕を掘り進んでいた。時たま顔を出す日本兵に狙撃をする兵士。
前線維持の為に防衛陣地に派遣される兵隊。
ロシア軍からみた日露戦争の写真を色々集めておりました。主に旅順港あたりの古写真です。
正確な時期や場所などはわかりませんが、独自の解釈と推理から古写真の解説とキャプションをつけていきます。資料の参考にはしないでください。
1904年12月、旅順港周辺は日本軍に包囲されて、帝政ロシア軍は強固な陣地を構築していたが、長期に渡る攻防戦により、両軍疲弊していた。ロシア軍は塹壕を掘って前線を維持。日本軍の砲撃が近くに着弾。
ロシア軍は日本軍の総攻撃に備えて前線の塹壕に張り付く。時たま来る砲撃には壕に隠れるしかない。食事の風景。
ロシア軍の大砲。旅順港外側に向いていたのに陸側に向けるようになった。よく見ると砲身は丸太。壊れたのか偽装している。
塹壕から顔を出すと狙われるのであまり高い姿勢はできない。
ロシア軍の大砲。形は日本軍の二十八センチ砲そっくりだが、少し砲の規格が小さい榴弾砲。
それもそのはず、二十八センチ砲もドイツのクルップ社製の砲を国産化したのに始まり、
ロシア軍もこのクルップ社製砲を輸入して配備していた。
旅順港攻略戦で名をはせた二十八センチ砲は不発も多く、陣地に着弾した砲弾をロシア軍が回収して打ち返したという話もある。
大砲の横でサモワール(ロシア独特の湯沸かし器)を沸かす。
写真奥にあるのが東鶏冠山北堡塁の兵舎だと思われる。
憶測だが望台から撮った写真。
日本軍の動向を監視中。
日本軍は総攻撃の準備に近くまで塹壕を掘り進んでいた。時たま顔を出す日本兵に狙撃をする兵士。
前線維持の為に防衛陣地に派遣される兵隊。
旅順:東鶏冠山北堡塁跡 その3 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
すこし時間を空けてしまいすみません。
大連、旅順、東鶏冠山、北堡塁跡の続きです。
東鶏冠山を受け持った第11師団の攻撃時系列。
1904年8月19日~24日、第一回総攻撃、外壕発見。外壕に躍り込んだ隊は全員死亡。
10月30日~31日、第二回総攻撃。第22連隊(愛媛の部隊)、一角を占領も壊滅。坑道作業に転換。
11月26日、第三回攻撃、胸塔二カ所を爆破。第22連隊が突入も白兵戦で多くの犠牲を出す。占領地の維持ができなかった。
12月10日、総攻撃開始。
12月15日、勲章授与の為に兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が砲撃で戦死。中にいた中国人スパイの情報だった。
12月18日、胸壁に仕掛けた2トンの爆薬を爆破。胸壁は崩壊。ロシア軍は僅か守備兵150名だったが勇敢に反撃。第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。
記念写真用の機関銃。
ロシア軍の大砲、実物大?の模型。よく似た大砲でM1877 107mmカノン砲がある。
ここから東鶏冠山北堡塁の兵舎の画像。
兵舎は厚いべトン(ドイツ語でコンクリート)で覆われて200人規模の人員を守ることができた。しかしながらここ以外にも前線はあるし、日本軍の夜襲もあるし、全員がここには入れず、露天の塹壕か小さな詰所で寝泊まりしていたことと思う。二階立てて中間に板が貼ってあったという。
大連、旅順、東鶏冠山、北堡塁跡の続きです。
東鶏冠山を受け持った第11師団の攻撃時系列。
1904年8月19日~24日、第一回総攻撃、外壕発見。外壕に躍り込んだ隊は全員死亡。
10月30日~31日、第二回総攻撃。第22連隊(愛媛の部隊)、一角を占領も壊滅。坑道作業に転換。
11月26日、第三回攻撃、胸塔二カ所を爆破。第22連隊が突入も白兵戦で多くの犠牲を出す。占領地の維持ができなかった。
12月10日、総攻撃開始。
12月15日、勲章授与の為に兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が砲撃で戦死。中にいた中国人スパイの情報だった。
12月18日、胸壁に仕掛けた2トンの爆薬を爆破。胸壁は崩壊。ロシア軍は僅か守備兵150名だったが勇敢に反撃。第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。
記念写真用の機関銃。
ロシア軍の大砲、実物大?の模型。よく似た大砲でM1877 107mmカノン砲がある。
ここから東鶏冠山北堡塁の兵舎の画像。
兵舎は厚いべトン(ドイツ語でコンクリート)で覆われて200人規模の人員を守ることができた。しかしながらここ以外にも前線はあるし、日本軍の夜襲もあるし、全員がここには入れず、露天の塹壕か小さな詰所で寝泊まりしていたことと思う。二階立てて中間に板が貼ってあったという。
旅順:東鶏冠山北堡塁跡 その2 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
東鶏冠山堡塁攻略を任されたのは第2軍から第3軍に編入された第11師団。香川県、善通寺に司令部を持つ四国の師団だった。
wikipediaより画像。
外側にあった日本軍の爆破口跡。
第一回総攻撃(1904年8月19日~24日)8月18日深夜から二日間の砲撃で東鶏冠山を含め、ロシア軍の各所堡塁は日本軍から大損害を被る。21日より総攻撃を開始するが北堡塁の外壕を発見したのがこの直前のこと。日本軍は北堡塁が二重構造であったことに気づいていなかった。
第一回総攻撃直前に外壕があることがわかった日本軍だが、内部構造まではわかっていなかった。突撃隊は上からの攻撃を受けながら2階から落ちたようにこの外壕に落ちた。その高さ4mはあるだろう。足を骨折するかそのまま死んだ兵隊も多かったことと思う。しかしその後は外壕の内側から、上からも攻撃をされてでロシア軍は第一回、第二回と総攻撃を防衛する。東鶏冠山北堡塁だけで8000人の死者を出した。
ロシア軍の鉄壁の堡塁を築いたコンクリートだが、実際は鉄筋コンクリートの技術はまだこの当時なく、旅順の海岸の砂利や泥土をコンクリートと混ぜて作っただけの脆いつくり。建設は中国人労働者を無賃で強制労働させて作らせたとのこと。
写真家によって(どこの国の人かメモを忘れた。)最近になって偶然発見されたという女性の横顔。日本軍の地下坑道爆破の瓦礫と偶然が重なってできた。
wikipediaより画像。
外側にあった日本軍の爆破口跡。
第一回総攻撃(1904年8月19日~24日)8月18日深夜から二日間の砲撃で東鶏冠山を含め、ロシア軍の各所堡塁は日本軍から大損害を被る。21日より総攻撃を開始するが北堡塁の外壕を発見したのがこの直前のこと。日本軍は北堡塁が二重構造であったことに気づいていなかった。
第一回総攻撃直前に外壕があることがわかった日本軍だが、内部構造まではわかっていなかった。突撃隊は上からの攻撃を受けながら2階から落ちたようにこの外壕に落ちた。その高さ4mはあるだろう。足を骨折するかそのまま死んだ兵隊も多かったことと思う。しかしその後は外壕の内側から、上からも攻撃をされてでロシア軍は第一回、第二回と総攻撃を防衛する。東鶏冠山北堡塁だけで8000人の死者を出した。
ロシア軍の鉄壁の堡塁を築いたコンクリートだが、実際は鉄筋コンクリートの技術はまだこの当時なく、旅順の海岸の砂利や泥土をコンクリートと混ぜて作っただけの脆いつくり。建設は中国人労働者を無賃で強制労働させて作らせたとのこと。
写真家によって(どこの国の人かメモを忘れた。)最近になって偶然発見されたという女性の横顔。日本軍の地下坑道爆破の瓦礫と偶然が重なってできた。
旅順:東鶏冠山北堡塁跡 その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
大連のホテルで一泊、この日が旅行最後になりました。
ここから旅順:東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほうるい)跡へ。日露戦争、旅順攻略の激戦地です。
ここから駐車場。日露両軍のつわものどもが夢のあと。114年前のできごと。
駐車場にあった露店のお土産屋さん。ここにはロシア人も中国人も観光に来ないのでもっぱら日本人しか来ないらしい。
ここからロシアのWEBサイトから無断掲載発見した日露戦争当時の写真を交互に載せていきます。ロシア語検索で色々見つかった画像の中から東鶏冠山、二百三高地と、ひとくくりに旅順攻囲戦「Порт-Артура」(二百三高地が英語で「Port Arther」)と表記されているので正確にはどこがどこなのかわかりません。
狭い地域に帝政ロシア軍守備隊5万。乃木将軍率いる第三軍5万が4か月に渡って死闘を繰り広げた。
向こうに見える特徴的な三つの山系。旅順攻囲戦初期かと推測。
公園入口。日本軍陣地側から歩きます。
東鶏冠山は旅順要塞の中でも三大永久要塞と謳われた。周囲は敵の砲撃に屈しない厚いコンクリートで覆われ、外側の隠れた銃眼から一斉射撃も可能と、敵の攻撃に耐えられる陣地が組まれていた。
塹壕の跡、114年経っても残る。
観光地あるあるの記念写真を撮らせてお金を支払う商人。チープな機関銃の模型と一緒に塹壕での記念写真を撮るというもの。
日本軍の爆破口跡。べトン(ドイツ語:コンクリート)でガチガチに固めた要塞に突破口を開こうと日本軍は塹壕を掘り進め、地下坑道を掘って2トンの爆薬を仕掛けて爆破。ようやく占領できた。
第三回総攻撃の始まり、1904年11月26日の爆破口がここだそうだ。
ここから旅順:東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほうるい)跡へ。日露戦争、旅順攻略の激戦地です。
ここから駐車場。日露両軍のつわものどもが夢のあと。114年前のできごと。
駐車場にあった露店のお土産屋さん。ここにはロシア人も中国人も観光に来ないのでもっぱら日本人しか来ないらしい。
ここからロシアのWEBサイトから
狭い地域に帝政ロシア軍守備隊5万。乃木将軍率いる第三軍5万が4か月に渡って死闘を繰り広げた。
向こうに見える特徴的な三つの山系。旅順攻囲戦初期かと推測。
公園入口。日本軍陣地側から歩きます。
東鶏冠山は旅順要塞の中でも三大永久要塞と謳われた。周囲は敵の砲撃に屈しない厚いコンクリートで覆われ、外側の隠れた銃眼から一斉射撃も可能と、敵の攻撃に耐えられる陣地が組まれていた。
塹壕の跡、114年経っても残る。
観光地あるあるの記念写真を撮らせてお金を支払う商人。チープな機関銃の模型と一緒に塹壕での記念写真を撮るというもの。
日本軍の爆破口跡。べトン(ドイツ語:コンクリート)でガチガチに固めた要塞に突破口を開こうと日本軍は塹壕を掘り進め、地下坑道を掘って2トンの爆薬を仕掛けて爆破。ようやく占領できた。
第三回総攻撃の始まり、1904年11月26日の爆破口がここだそうだ。
丹東:虎山長城 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
万里の長城の東の起点、虎山長城を登ってみる。
バスに乗り込んで今度は大連に。
丹東:虎山長城、一歩跨 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
バスに乗って鴨緑江の上流をさかのぼってみる。対岸は北朝鮮だが喉かな農村の風景が広がる。
朝鮮戦争混乱期の橋かな?橋桁がない。
虎山長城の入り口。観光名所なので広々とした駐車場がある。
万里の長城の東の突端がここ。
Wikipedia:虎山長城
入り口から1.5km程歩く。
到着。
アカシアの花が咲いている。
ここから一歩跨。虎山長城を越えてすぐ奥にある。
歩いていると隣に畑があるのだが、ここまでは私有地なのか?
途中、人民解放軍の兵隊さんが国境警備に当たっていた。お土産屋の主人と話し込んだり和やか。当時、北朝鮮兵士が越境して中国で犯罪を犯す事件があったりしていたのだが。
国境に関する注意事項が書いてある。物の交換をしてはならない。鳩を飛ばさない。国境監視の兵隊にカメラを向けてはならない。など。
ここが一歩跨。北朝鮮国境でも一番近いところ。その幅10数m程くらいの川幅しかない。
向こうの方に国境監視の見張り台が見える。なんとなく人影が見えるが、向こうはここから越境者や、物を投げる人がいないかの監視をしている。
ヘビは国境など関係ないように越境している。
丹東:鴨緑江断橋 その3 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
ここから鴨緑江断橋を渡ってみる。日清、日露より朝鮮戦争とその歴史を感じさせてくれる。
袂(たもと)にあるトーチカのようなもの。銃眼のようなものもあるし日本領時代の物か?
対空砲、朝鮮戦争の頃の物と思う。ボフォース40mm機関砲?
朝鮮戦争は中華人民共和国にとって建国初の大掛かりな対外軍派遣の場となった。国境すぐ近くに西側の国ができるかどうかの脅威が高かった為だ。
線路は外されて遊歩道になっている。
破壊された橋の突端までついた。橋は当初、帆船用に回転して航路を開ける機構があった。
朝鮮戦争時には韓国軍がここ鴨緑江まで進軍したというが、中国軍の反撃をくらう。
破壊されたときの爆弾の模型。
丁度、隣の第二江断橋を北朝鮮行の列車が通る。