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二百三高地を登れ!その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

旅順包囲戦、最大の激戦地、203高地へはバスで中腹の駐車場まで登れます。
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203高地は別名「爾霊山」(にれいざん)。すぐとなりに老虎溝山(赤坂山)があるのですが、駐車場から反対側に登るらしい。そこにはいけなかった。爾霊山の塔があるのが203高地東側山頂で、203高地占領後、弾着観測所になったのが西側の山頂のようです。
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乃木将軍の次男、乃木保典戦死の石碑もあり、ひっそりとあるようです。時間があったらそこにも行きたかった。(陸軍少尉。日露戦争に後備歩兵第一旅団司令部付として出征、二○三高地で明治37年12月1日第三回総攻撃の中、敵砲弾により戦死した。24歳。)
1904年8月から総攻撃を繰り返すも、旅順要塞群は陥落せず、将兵の死傷者を多く出したことにより、民衆は乃木将軍を強く非難、自宅への投石行為をした。第3回総攻撃で保典戦死により、世論は一遍。それより先、1904年5月に長男の勝典が南山の戦いで戦死しているのを知り、功労者としての評価がなされる。息子二人を戦地で失い、旅順攻囲戦の第三軍の多数の死傷者の責任からか、将軍の軍人としての想いや如何許りのものだったか。
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駐車場からミニバン(有料)で案内してくれるそうですが、結局歩きました。歩けばすぐ近く。スロープもそこまで急ではない。この道もちゃんと整備はしてくれてはいるが、当時、ロシア軍が使っていた道だろう。
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爾霊山塔。戦後、乃木将軍発案の元、山頂に散らばる敵味方の殻薬きょうを集め、鋳造して、三十年式実包の形に成形して建立した。爾霊山とは乃木希典の考えた当て字で漢詩から「爾(なんじ)霊の山」、「爾(二)、霊(〇)、山(三)」と表記した。息子の死、数多の部下の死を乗り越え、慰霊の想いをしたためた。文字は乃木将軍の筆跡である。
203高地の戦いだけで日本軍側1万人、ロシア軍側6千人の死傷者を出した。
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5月末の頃だったが気温が高く、湿度もあったのであまり旅順港は見えなかった。
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太平洋戦争が終わって、ソ連軍侵攻で観光地だったここもソ連軍の管轄内に。ロシア革命以前の戦いに敵将の慰霊碑に落書きをする者あり。文化大革命でも荒廃した場所でもある。殻薬きょうなので真鍮製かな?
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