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ロシア人街 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

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中山広場の中国銀行大連分行(旧横浜正金銀行)
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ヤマトホテルの裏だったかな?
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バスで移動。ロシア人街へ。
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日本人街。戦前、高級住宅地だったところ。現在は共産党幹部の別荘地として人気だとか。
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大連のメイド喫茶。こんなものまであるのか。
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勝利橋(旧日本橋)の上。
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ロシア人街へ。日露戦争以前より中国への進出が激しい帝政ロシアの不凍港獲得として大連が注目されていました。ロシア人街を建設中に大規模な都市開発ができないまま、日露戦争が勃発したので大連でもロシア人街はここだけ残った。現在の主は中国人。
哈爾浜(ハルビン)でもそうだったのですが、ロシア文化の影響が残るところでもありました。お土産屋はマトリョーシカも売ってた。僕はCCCPの文字の入ったスキットルを買った。
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この後、大連国際空港で関空へ帰りました。
これで2015年の中国東北部旅行記を終わります。
あれよあれよと長引いて5年!2015年5月末の出来事をようやくまとめました。

最近のコロナウィルスの影響で自宅待機が続いている2020年4月末の現在。
「何かしたい!ブログをまとめる時間はたくさんある!」
と投稿意欲に火が付き、書き続けてきました。何もできない中、一つの大きな旅行記を書ききれたことに意義がある。旅行記の思い出に浸っていました。
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大連ヤマトホテル内部 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

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ここから大連ヤマトホテルの内部の画像。現在でもホテルとしての機能のほかに、中国共産党政府所有のホテルとして外交会議や晩餐会が開かれるところ。ガイドの人から共産党幹部と癒着している人物を写真に収めるだけで不当な逮捕をされるかもと念を押されました。晩餐会会場の大広間は映画『ラスト・エンペラー』でも撮影に使われた場所ですが、撮影禁止でした。
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見覚えがあるという方もいるかもしれない。江沢民や胡錦涛も座ったことのある椅子。日本の首相も座ったことのある場所。
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大連中山広場 大連ヤマトホテル [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

大連中山広場へ。ここはロシア統治時代はニコライェフスカヤ広場、日本統治時代は大広場と呼ばれた。1908年~1935年の間に日本人建築家によるゴシック様式、ルネッサンス様式の建築が立ち並んだ。
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大連民政署(旧大連警察署)
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大連ヤマトホテルは南満州鉄道が巨万の富を投じて建設された豪華絢爛なホテル。
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大連市内観光 その2 大連港 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

大連港へ。
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大連港は太平洋戦争終結で中国大陸から日本に引揚者たちでごった返しになったところ。1946年12月~1947年3月、大連港より20万3765人の日本人の引き揚げが行われる。その後も引き揚げが行われた。
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ホテルに帰る。〇ンリオのキ〇ィちゃんと〇ラえもんがコラボしてました。
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大連市内観光 その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

バスで少し移動して大連市内に入りました。
日露戦争後から太平洋戦争までの日本の史跡を巡ります。人民広場に向かう。
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大連市人民政府(旧関東州庁舎)
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東大安田講堂館に似てる大連市裁判所(旧最高裁判所)
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労働公園へ少し観光。日本統治時代は『西公園』、1926年から『中央公園』。
公園内で大きな筆で書を書くお爺さんを見つける。
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公園に集まってトランプゲームをする人たち。
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その後で中国茶の試飲販売のお店へ。中国茶道のマナー講座とかジャスミン茶を試飲したりした。
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水師営会見所 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

旅順203高地の観光の後で日露両軍の降伏会見場として使われた水師営に向かいました。
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203高地からはほど近い。現在周辺は住宅地になっている。乃木将軍、ステッセル将軍の会見所としてこの農家を接収して会見場とした。水師営は第一回総攻撃ですでに日本軍占領地になっていた。
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水師営の会見は1905年1月5日11時からの予定だった。旅順要塞司令官ステッセル将軍と参謀長レイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて、水師営会見所に午前10時半に到着。遅れて乃木将軍は11時15分に農家に入った。同行者は伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、通訳として川上俊彦外務書記官の6名。
会見では終始穏やかで両軍ともにお互いの軍隊を称えあい、双方の参謀を交えて昼食をとり、お互い無事に帰国できたなら文通を交わそうと約束。
午後1時15分には旅順に帰って行った。
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ステッセル中将が乗ってきた白馬。
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会見の前に1月2日午後1時、降伏条件を伊地知参謀長と交渉するために水師営に到着した降伏軍使レイス大使とシチェンスノビッチ大佐。前日の1日にステッセル将軍の降伏書簡を手渡していた。
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会見所の座った場所も実はどこに座ったかはっきりしているらしいがメモを忘れた。
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会見所の農家は1995年に建て替えられたもの。
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会見中の外の様子。
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会見所は1945年まで観光地として整備されていたようです。歌にまで唄われる水師営会見。
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会見の後で海外のカメラマンからステッセルの記念写真を撮ろうとしたが、乃木将軍はそれを拒んだ。「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。」と「会見が終わり、友人として同列に並んだところならよい。」とあくまで同一条件を意識し、双方互い違いに座って記念写真に収まる。
画面中段左からレイス参謀長、乃木将軍、ステッセル将軍、伊地知参謀長。
画面手前左から、レブレスコイ少尉、津野田少尉、
画面奥左から川上俊彦書記官、安原参謀、マルチェンコ中尉、松平副官(この人はマルチェンコ中尉に対してどうしてか肩に手を乗せている。)、渡辺管理部長。
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写真は角度が少し悪いが乃木、ステッセル両将軍の写る有名な写真の場所はここで撮られた。写真の種類では画面右に植木(唄にあるナツメの樹?)があるのですが、少しトリミングされている。花壇はもちろん戦後に作られたものだが、入り口側の堀を背に両将軍が記念写真のために立っていた場所である。とても感慨深い。
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観光の後ですぐ隣の奥のレストランで食事。地元の人も利用するような場所だった。そして会見所向かいにお土産屋がある。ここは南満州鉄道社のマークの入った食器も売っていた。結局買わなかった。
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日露戦争、旅順攻囲戦 古写真 その3 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

旅順攻囲戦のロシア軍降伏後の古写真がいくつか見つかったので載せます。
解説は写真を元に独断で考察したもので間違いもあります。
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旅順要塞降伏後、白玉山から旅順港をみる日本兵。
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攻囲戦後、進駐する日本兵。
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1905年1月1日、日本軍の猛攻により守備兵力が枯渇しかけたロシア軍は望台の陥落でついに抗戦を断念。旅順要塞司令官ステッセリは降伏を申し入れる。5日、旅順近郊の水師営で乃木将軍と会談を行う。会談後、降伏式の前に完全武装で待つ。ロシア軍守備兵。
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降伏の前に様子を見に来た日本兵と一緒にカメラに写る。タバコを交換しているように見える。日露戦争では戦闘を一時中断して双方の物々交換や同胞の戦死遺体を収容することがあった。
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前線まで見に来た日本兵と一緒に。
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この写真はまだ戦闘中の旅順港の状況。203高地は12月5日に占領するも、旅順港内の目標艦船の射撃観測点として機能したというのは間違いで、旅順艦隊はすでに黄海海戦で修復不可能なほど消耗しており、水兵や艦隊の砲は陸揚げされて守備兵力に編入されていたとのこと。動かぬ艦船に命中しても二十八センチ砲の威力を持っても船底を貫き、沈没させることはできず、戦後に自沈処理されている。203高地の他、東鶏冠山堡塁、二竜山堡塁、望台、と陥落が続いたことで降伏するに至ったのだ。203高地占領という感動的な描かれ方をしているが、実際のところ、旅順攻囲戦全体の最終段階において203高地が射撃観測に良さそうだと、攻撃を集中させたという話のようである。
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二百三高地を登れ!その2 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

爾霊山塔を見た後で駐車場へ。帰る少しの間だけ西側山頂へ向かいました。
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ここを下ると保典戦死の石碑があるところじゃないかなと思います。
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旅順港を見る。
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115年前の旅順港、二百三高地から。
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2015年の旅順港。
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そしてこの場所にデンと建造されていたのが、かの有名な二十八センチ榴弾砲です。
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まず二百三高地頂上に二十八センチ榴弾砲は設置されていません!北側麓から旅順港内に届く範囲に設置されていました。そしてこの適当さ加減。サイズももう少し大きいと思われます。
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参考までに実物写真。
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そこかしこに塹壕跡が見られます。
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二百三高地、歴史を感じる戦場も今や観光名所。兵どもが夢の跡。
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二百三高地を登れ!その1 [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

旅順包囲戦、最大の激戦地、203高地へはバスで中腹の駐車場まで登れます。
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203高地は別名「爾霊山」(にれいざん)。すぐとなりに老虎溝山(赤坂山)があるのですが、駐車場から反対側に登るらしい。そこにはいけなかった。爾霊山の塔があるのが203高地東側山頂で、203高地占領後、弾着観測所になったのが西側の山頂のようです。
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乃木将軍の次男、乃木保典戦死の石碑もあり、ひっそりとあるようです。時間があったらそこにも行きたかった。(陸軍少尉。日露戦争に後備歩兵第一旅団司令部付として出征、二○三高地で明治37年12月1日第三回総攻撃の中、敵砲弾により戦死した。24歳。)
1904年8月から総攻撃を繰り返すも、旅順要塞群は陥落せず、将兵の死傷者を多く出したことにより、民衆は乃木将軍を強く非難、自宅への投石行為をした。第3回総攻撃で保典戦死により、世論は一遍。それより先、1904年5月に長男の勝典が南山の戦いで戦死しているのを知り、功労者としての評価がなされる。息子二人を戦地で失い、旅順攻囲戦の第三軍の多数の死傷者の責任からか、将軍の軍人としての想いや如何許りのものだったか。
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駐車場からミニバン(有料)で案内してくれるそうですが、結局歩きました。歩けばすぐ近く。スロープもそこまで急ではない。この道もちゃんと整備はしてくれてはいるが、当時、ロシア軍が使っていた道だろう。
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爾霊山塔。戦後、乃木将軍発案の元、山頂に散らばる敵味方の殻薬きょうを集め、鋳造して、三十年式実包の形に成形して建立した。爾霊山とは乃木希典の考えた当て字で漢詩から「爾(なんじ)霊の山」、「爾(二)、霊(〇)、山(三)」と表記した。息子の死、数多の部下の死を乗り越え、慰霊の想いをしたためた。文字は乃木将軍の筆跡である。
203高地の戦いだけで日本軍側1万人、ロシア軍側6千人の死傷者を出した。
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5月末の頃だったが気温が高く、湿度もあったのであまり旅順港は見えなかった。
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太平洋戦争が終わって、ソ連軍侵攻で観光地だったここもソ連軍の管轄内に。ロシア革命以前の戦いに敵将の慰霊碑に落書きをする者あり。文化大革命でも荒廃した場所でもある。殻薬きょうなので真鍮製かな?
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旅順駅、旅順ヤマトホテル [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]

もう5年前になるね…
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東鶏冠山北堡塁の後で旅順市街に入りました。旅順港は太平洋戦争後も軍港として発展、外国人の立ち入りは制限されていたという場所。現在では日本人観光客の増加により戦前の建築文化財の保存に乗り出し、まだ観光整備中といったところでした。
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旅順駅
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日露戦争始まる以前にロシア軍が軍港利用を目的として1903年に開業。1904年に日露戦争勃発で駅舎は日本のものに。1945年に日本の敗戦でソ連軍のものに、1952年、中国政府の管理下へ。
木造建築で当時の面影が残るロシア建築独特な屋根をしたレトロな駅舎。
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バスの車窓から案内されただけでしたが旅順港から見える白玉山塔。
日露戦争後に戦没者の遺骨を収容する「納骨祠」を作り、東郷平八郎と乃木希典の共同提案で2年と歳月と募金10数万を募って高さ84.8mの英霊を祀る「表忠塔」を建立した。時間がなかったので訪れることはなかった。景観がよいことからロープウェイもあるらしい。
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ここから旅順ヤマトホテルの画像。帝政ロシアが建築中だった建物を改装してホテルに。南満州鉄道が豪華絢爛な装飾を施した一流の建物も、現在では廃墟同然。中国政府が文化財保護の為にこれから改修工事をする予定だそうだ。ホテルの前は露天市場が並ぶ。昔は栄えていたはずなのだが、歴史の流れというものを感じる。
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汚れた窓から中を覗いてみる。中に階段が見えるが、手すりが波形の凝った作り。戦前は李香蘭(山口淑子)も泊まったかもしれないし、川島芳子は結婚式をここで挙げて、あの階段を昇ったであろう。そんな場所だ。
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