旅順駅、旅順ヤマトホテル [中国東北部、旧満州の旅(15年6月)]
もう5年前になるね…
東鶏冠山北堡塁の後で旅順市街に入りました。旅順港は太平洋戦争後も軍港として発展、外国人の立ち入りは制限されていたという場所。現在では日本人観光客の増加により戦前の建築文化財の保存に乗り出し、まだ観光整備中といったところでした。
旅順駅
日露戦争始まる以前にロシア軍が軍港利用を目的として1903年に開業。1904年に日露戦争勃発で駅舎は日本のものに。1945年に日本の敗戦でソ連軍のものに、1952年、中国政府の管理下へ。
木造建築で当時の面影が残るロシア建築独特な屋根をしたレトロな駅舎。
バスの車窓から案内されただけでしたが旅順港から見える白玉山塔。
日露戦争後に戦没者の遺骨を収容する「納骨祠」を作り、東郷平八郎と乃木希典の共同提案で2年と歳月と募金10数万を募って高さ84.8mの英霊を祀る「表忠塔」を建立した。時間がなかったので訪れることはなかった。景観がよいことからロープウェイもあるらしい。
ここから旅順ヤマトホテルの画像。帝政ロシアが建築中だった建物を改装してホテルに。南満州鉄道が豪華絢爛な装飾を施した一流の建物も、現在では廃墟同然。中国政府が文化財保護の為にこれから改修工事をする予定だそうだ。ホテルの前は露天市場が並ぶ。昔は栄えていたはずなのだが、歴史の流れというものを感じる。
汚れた窓から中を覗いてみる。中に階段が見えるが、手すりが波形の凝った作り。戦前は李香蘭(山口淑子)も泊まったかもしれないし、川島芳子は結婚式をここで挙げて、あの階段を昇ったであろう。そんな場所だ。
東鶏冠山北堡塁の後で旅順市街に入りました。旅順港は太平洋戦争後も軍港として発展、外国人の立ち入りは制限されていたという場所。現在では日本人観光客の増加により戦前の建築文化財の保存に乗り出し、まだ観光整備中といったところでした。
旅順駅
日露戦争始まる以前にロシア軍が軍港利用を目的として1903年に開業。1904年に日露戦争勃発で駅舎は日本のものに。1945年に日本の敗戦でソ連軍のものに、1952年、中国政府の管理下へ。
木造建築で当時の面影が残るロシア建築独特な屋根をしたレトロな駅舎。
バスの車窓から案内されただけでしたが旅順港から見える白玉山塔。
日露戦争後に戦没者の遺骨を収容する「納骨祠」を作り、東郷平八郎と乃木希典の共同提案で2年と歳月と募金10数万を募って高さ84.8mの英霊を祀る「表忠塔」を建立した。時間がなかったので訪れることはなかった。景観がよいことからロープウェイもあるらしい。
ここから旅順ヤマトホテルの画像。帝政ロシアが建築中だった建物を改装してホテルに。南満州鉄道が豪華絢爛な装飾を施した一流の建物も、現在では廃墟同然。中国政府が文化財保護の為にこれから改修工事をする予定だそうだ。ホテルの前は露天市場が並ぶ。昔は栄えていたはずなのだが、歴史の流れというものを感じる。
汚れた窓から中を覗いてみる。中に階段が見えるが、手すりが波形の凝った作り。戦前は李香蘭(山口淑子)も泊まったかもしれないし、川島芳子は結婚式をここで挙げて、あの階段を昇ったであろう。そんな場所だ。
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