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ニニ八記念館 その1 [台湾旅行記(09年8月)]

日本統治時代から戦後台湾の民主化運動までの歴史を後世に伝える資料館です。

台北駅からほど近いニニ八和平公園の中にその記念館はあります。
台湾戦後史最大の悲劇の舞台である旧ラジオ局の建物を改築したものです。

台湾 (17).jpg
ウィキペディア『二・二八事件』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾。それまで日本領だった台湾を放棄することになる。日本統治下の台湾市民は異民族の支配からの解放を喜んだ。しかし同じ民族である進駐してきた中華民国の軍隊は、期待とは裏腹に敗残兵のような姿に幻滅してしまう。
解放者と称する兵隊は椀飯振舞にたむろし、強盗や婦女暴行事件が続発。日本統治時代からあった台湾の物資は大陸へ運ばれ、物不足が深刻化、物価は高騰。台湾人の反感を買うようになる。そして1947年2月27日、闇タバコを売っていた老婆に売上金まで没収する役人が暴行を加える事件が発端となり、そのことに抗議をした民衆に憲兵が発砲、死者が出たことで本省人の怒りが爆発。デモ隊はラジオ局を占拠して放送を通して台湾全土に決起を呼びかけた。「台湾人よ立ち上がれ!」と。
放送は軍艦マーチに日本語だったという。

戦後大陸から来た人は外省人と呼び、終戦前からいた台湾人たちは本省人と呼ばれた。本省人の反乱に蒋介石は大陸から鎮圧部隊を派遣。国共内戦でアメリカから武器援助を受けていた軍隊は無差別虐殺を開始する。犠牲になった本省人は2万~3万名ともいわれるが、現在もその数は不明。反乱の鎮静化後も厳戒令は続き、秘密の会合や集会の禁止、言論統制から事件を語ることは民主化される1988年までタブーとされた。

解放の時を喜んだ戦後台湾の長く暗い恐怖政治の始まりだった。現在でも家族を犠牲になった人や危険分子で拷問を受けた人は蒋介石を恨んでいる人が多い。記念館を案内してくれたのは80代の日本語教育を受けたお爺さんでした。
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戦後、中華民国の教育を受けて言語が北京語に変わり、恐怖政治の終わる頃にまた日本語を勉強し直したという。2時間にわたり日本語で案内してくれてとても勉強になりました。
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よくも悪くも日本統治時代を客観視した展示スペースだったように思います。
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『皇民化運動』。これが今でも議論されている。
「日本人との差別をなくそうとしていた。」⇔「アイデンティティ、文化を奪うもの。」
台湾人については言葉と信仰を奪うものなってしまった。しかし台湾原住民の他部族間のコミュニケーションに成功しているし、現在でも日本語で会話をする部族がいる。
戦後は中華思想でまた言語を代えられてしまう。現在では福建方言の北京語ベースの日本語混ざりといった複雑極まりないので、複合して台湾語と変化している。

でも日本人がアメリカ人化で英語が公用語にされるのは嫌だろうな。「文化風習を押しつけられる」と「見習い参考にする」ではまた違うだろうし。
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