SSブログ
サハリン・樺太旅行記(08年9月) ブログトップ
- | 次の10件

自由市場(バザール)の中。 [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

どこの国だって市場があり、その国で食べる物全てが集まります。今回は自由市場の中を紹介します。
ユジノ・サハリンスク昼食 (8).JPG
ユジノ・サハリンスク昼食.JPG
ユジノ・サハリンスク昼食 (1).JPG
そういえばロシアのアニメでスイカの皮を使ってイタズラを(滑りやすく)するという場面があったっけ。
ユジノ・サハリンスク昼食 (2).JPG
日本の「ムーニー」が。
ユジノ・サハリンスク昼食 (3).JPG
サハリンのスーパーならどこでもあったお惣菜コーナー。何グラム欲しいと言えばその場でタッパーに詰めてバーコードを張ってくれる。会計はレジで。韓国料理のような唐辛子が入ったものも多かった。
ユジノ・サハリンスク昼食 (4).JPG
ユジノ・サハリンスク昼食 (5).JPG
海鮮類は日本より二回りぐらい大きい。値段もそれなりにする。
ユジノ・サハリンスク昼食 (6).JPG
ユジノ・サハリンスク昼食 (7).JPG
キオスク (11).JPG
まったく関係はないがホテルにあった。新聞の自販機。
キオスク (12).JPG
pとk.JPG
ロシアの通貨は「p」(ルーブル、約4.6円)と「k」(コペイカ、1ルーブルの1/100)。
画像の左から10p、5p、2p、1p。10pは紙幣でもある。表は同じデザインの双頭の鷲。
コペイカはあまり使われなく、スーパーで買い物をしても最低50ペイカ硬貨ぐらいしかもらえない。お惣菜を買うとグラム売りなので細かい額も出てくるが、ルーブル以下のお釣りは帰ってこないこともある。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

流刑地サハリンを旅したチェーホフ。 [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

その昔、1891年から95年にかけてロシアの小説家アントン・チェーホフがサハリンの刑務所を廻り、ノンフィクション記事を新聞に投稿しながら旅をした。ロシアでも未発掘で、この世の地の果てとも比喩されていた場所。そこはロシア国内の重犯罪者の行く辺地、網走番外地とも、デビルズ島とも、アルカトラズとも。生きて帰れない流刑地を行ってみようと考えたのはなぜか?今なら海面下11000mの深海に行くか、8848mのエベレスト山に登るか、北極点や南極点、火星に行くぐらい難しい僻地だった。だいたい小説家や思想家や偉人(映画監督も)世界の色んなところを旅をするのが好きであり、彼も世界の果てを見たかったのかもしれない。当時なら死ぬ覚悟で行っただろうに。

ウィキペディア『アントン・チェーホフ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%95
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (48).jpg
旅行に行くと意外と少ないのが、こういったその土地ではなんでもないような風景の写真。ユジノ・サハリンスク市内、ちょっとした裏通り。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (49).jpg
写真がゴチャゴチャしていて整理し切れていないですが、市内にある屋内型の自由市場。中の画像はまた後日。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (57).jpg
昼食を食べたセルフ・サービスのお店。注文して支払いを済ませてから食べる。レストランではないかな。大衆食堂といった感じのお店でしたが、「撮影はダメ」と注意された。働いている人は女性ばかり。
ユジノ・サハリンスク昼食 (9).JPG
メニューはガイドさんに先に注文して食べていた人のを「僕も同じやつ」と通訳してくれて注文した。料理名が分かっても何が入ってるか分からない。ロシアでは夕食よりランチが一番豪華で時間を掛けて食べるそうだ。
左上からミートボールのトマトソース煮と(日本でも食べ慣れたような味で違和感なかった。)マッシュ・ポテト(妙に黄色くて滑らかになるまでマッシュされてて、薄く味が付いていた。)。
肉じゃが風の料理(豚肉とジャガイモ。酸味があって不思議な味。)とライス(水分が少なく粘りがなかったのでタイ米の仲間か?これも少々塩が利いていた。)、水。炭水化物ばっかりで満腹。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (55).jpg
歩いてチェーホフ記念館へ移動。レーニン広場は週末や祝日に新婚さんが記念写真を撮りにやってくる。それぐらいサハリンでも綺麗な場所だ。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (53).jpg
途中、北京オリンピックのロシア代表の看板が。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (52).jpg
市内で一番大きいキナチャートル アクチャーブリ(アクチャーブリ映画館)。アメリカ映画も上映しているらしい。看板にあるのはニコラス・ケイジでは?
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (47).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (56).jpg
ロシアの一般的な集合住宅。サハリンでは風雪の為か壁がボロボロに汚れていて、一見廃墟か入居しているのかも分からない。でも一部屋分だけ壁や窓が綺麗だったりする。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (54).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (60).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (50).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (58).jpg
チェーホフ記念館は住宅街にひっそりとあった。サハリンで一番の有名人。
中はもちろん撮影禁止。訛りが強くて早口な英語を話すロシア男性が館内ガイドをしてくれた。さらに英語を日本語に同時通訳でガイドが進行する。
チェーホフは鉄道や馬を乗り継いで、最後は船でサハリンへと渡った。初めはサハリンの刑務所所長に訪問の許可を手紙で送ったのだが返事は返ってこなかったらしい。サハリンについた後は囚人たち全てに会って話を聞き、一人一人のカードを作ったりした。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (59).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (61).jpg
僕もお金と時間が自由に使えたら、世界を旅してみたい。旅は人生体験なのだから。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

豊原は消えてしまった。その2 [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

ここサハリンでは戦勝記念日というのが9月3日にあり(9月2日は日本がポツダム宣言の調印をした日で翌日が対日戦勝記念日。5月9日には対独戦勝記念日。)、日本との戦争(1945年8月9日ソ連軍参戦から28日全島占領まで。)の戦闘の犠牲者を追悼する式典がユジノ・サハリンスク市内や、記念碑がある場所(北緯50度以南にたくさんある。)で行われる。
日本の場合「終戦」記念日は静々とした追悼の式典が行われるが、統治していたアジア諸国やここでは「追悼」よりも戦いの終わりを「祝う」式典が開かれる。ユジノ・サハリンスク市内観光は9月2日で、祭りの前の静けさか、こんな日に日本人の団体がいるのが珍しいのか、なにやら道行く人によく見られたような気がする。式典があった翌3日には50度線より北にあるノグリギという所に行っていたので、戦勝記念日のユジノ・サハリンスク市内の様子は見れなかった。ガイドのAさんによると式典では大通りに戦車や装甲車が走るらしい。さすがロシアだ。

ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (33).jpg
ユジノ・サハリンスクの郷土博物館。現在でも見られる旧樺太庁の建物をそのまま使用している。瓦屋根が(サハリンでは)エキゾチックな雰囲気。修復はもちろんされているだろうけど、少し南国な雰囲気がするのはなぜだろう。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (35).jpg
博物館敷地内に置いてあった日露戦争時代の日本の大砲。ちょうど遊びに来ていた子供が遊具代りに登って遊んでいた。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (34).jpg
実は子供が持ってる所は動く。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (41).jpg
みんなで被写体の餌食になった。お母さんははにかんですぐに退散していった。ロシアの女性は(特に多くもないが)赤毛に染めたり、黒髪の人は金髪に染めたりしている。地毛が伸びてプリン状態の女性もいた。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (40).jpg
カメラに入りきらなかったが長砲身の大砲と砲弾。砲弾は隣のかな?砲身に「明治三十七八年戦役記念」と書かれているが、日露戦争の別称をそう言うのだそうだ。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (36).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (39).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (38).jpg
大砲の尾栓側。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (37).jpg
博物館の中は撮影禁止だったのでここまで。中にはサハリンにいた大昔の哺乳動物の化石、先住民族(ニブヒやアイヌ)の資料、間宮林蔵のことや、日本領地時代の資料(先住民族の資料に比べ少ない。)が展示されてあったが、時間が押していたので全てを見ることなく退館。お昼を食べにレストランへ。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (43).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (45).jpg
見学に来ていたのか明日の戦勝記念日のためか小学生が来ていた。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (46).jpg
サハリンでは見るからに軍人さん(上下迷彩服姿)があちこちに歩いている。ロシアでは徴兵制があって18歳から3年間ある。(大学生は年数を減らされるが卒業したばかりのガイドのAさんは今月末に一年間入隊するという話も聞いた。)こちら一行は見るからに少年(士官学校の生徒か?)だが肩にはカラシニコフ銃を携えていて、身近に軍隊がいる国でもある。作業着代わりに全身迷彩姿のおじさんもいるし、露天商店で物売りをしている人も迷彩服姿の人がいる。日本では絶対に観ない風景だ。ちなみにロシアの軍隊ではなぜかボーダー柄のT-シャツを着ている人が多い。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

豊原は消えてしまった。その1 [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

今日はユジノ・サハリンスク市内(旧豊原)の日本領地時代の面影を廻る日です。
樺太当時一番大きな街でした。

まずはユジノ・サハリンスク駅すぐ近くにある車両の展示スペースへ。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (6).jpg
鉄道に詳しくないのでよく分からないですが、日本から無償譲渡された車両。キハ系?(日本領地時代のものではない。)
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (7).jpg
サハリンでは樺太時代の鉄道の車輪幅、「狭軌」が今でも使われています。最近ではヨーロッパやロシアで一般的な「広軌」への工事が進んでいる。

ウィキペディア「サハリンの鉄道」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93

ユジノ・サハリンスク08年9月2日.jpg
ここから除雪車の展示。形もいろいろあって面白い。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (1).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (2).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (3).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (4).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (5).jpg
ここからは樺太時代の玉川橋の写真。すぐ隣に旧ソ連時代に作った大きな橋があるがその隣でひっそりと今もたたずんでいる。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (8).jpg
橋の名前が書かれてあるプレートはなくなっていた。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (9).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (11).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (10).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (12).jpg
向こうに見えるは樺太軍病院だった建物。手前はガス工事の現場(ユジノ・サハリンスク市内ではいたるところで工事をしている。未舗装路も多数。)。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (13).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (15).jpg
ここからは旧王子公園。現在はガガーリン公園。王子池の周りにあるのは子供鉄道のための線路。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (16).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (19).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (18).jpg
王子池からすぐ隣にある遊泳スペース。ガイドのAさん(現地旅行会社から派遣されたサハリン生まれ、サハリン育ちのバイトくん。大学で日本語専攻卒、若干20歳)は小さい時、学校の遠足で真冬に(寒中水泳の授業?)ここに飛び込んで次の日風邪をひいたという。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (20).jpg
名前は変わってもなくならない物がある。戦後、ソ連軍に倒されたがそのまま残る石碑。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (21).jpg
(メモに書くのを忘れていた。)神社跡。サハリンの人には日本時代の神社の価値はわからないのか。公園の奥にあるのでゴミが捨ててある。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (22).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (23).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (24).jpg
向こうにあるのは動物園。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (28).jpg
ここは日本時代からあったスキー場。現在でも使われている急勾配なコースある。毎年2~3人事故で亡くなる人がいるんだとか。
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (27).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (29).jpg
ユジノ・サハリンスク08年9月2日 (30).jpg
ユジノ・サハリンスク市内が見える。旧豊原の面影はない。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

キオスク [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

ユジノ・サハリンスク観光の前に、ロシアのキオスク(万屋「ヨロズヤ」)事情について。
キオスクはもともとトルコ語で「あずまや」の意なんだって。

ユジノ・サハリンスク中心部では24時間営業のキオスクがあります。また日本の駅中のキオスクのような小さなものから、出入り口のある店舗型のキオスクまで。商品も食品類を中心としたキオスク、下着類や文房具が中心のキオスクも存在します。(←この場合何々屋さんだよな~。)

キオスク (16).JPG
この日、コルサコフからユジノ・サハリンスクに移動してホテルにチェックイン後、晩御飯はどうしようかとガイドさんが考えて、多人数じゃレストランに入りきれないからキオスクで買ってホテルで食べようということになりました。レストランよりいいかもね。安いし。
これだけ大きいキオスクだと混んでくると店員さんは忙しくなる。利点は防犯や省スペースだと思うけど、大量に買う人がいた場合、接客にも時間が掛かってしまう。お惣菜も売ってました。このキオスクでは店の奥で調理していた。
隣に飲み物やお菓子類のキオスク、隣通しで繋がっている。
キオスク (17).JPG
キオスク (18).JPG
キオスク (19).JPG
キオスク (20).JPG
キオスク (21).JPG
キオスク (22).JPG
キオスク (23).JPG
キオスクで買った晩御飯はペンネ風パスタと鶏の塩コショウ焼きの惣菜、ハンバーガー。
ハンバーガーの中身はチーズとトマト、ハンバーグ。パンは噛みごたえがあってしっかりとしている。日本のバーガーはやわらかすぎるかもね。こっちのほうが腹持ちがよくていい。

水は初めて通じたロシア語で買った。「ダイチェ ヴァダー」(「水下さい。」)
ほかはガイドさんが通訳してくれた。「ダイチェ エータ」(「これ下さい。」)

キオスク (15).JPG
キオスク.JPG
コルサコフ~ユジノ・サハリンスクの画像。
キオスク (1).JPG
キオスク (2).JPG
キオスク (3).JPG
郊外の道路はみな80kmぐらい飛ばす。道路もところどころヒビがいっててガツンガツンと振動がくる。
キオスク (4).JPG
キオスク (5).JPG
キオスク (6).JPG
キオスク (7).JPG
キオスク (8).JPG
キオスク (9).JPG
レーニン広場近くの画像。
キオスク (10).JPG
レーニン像。ロシアにレーニン広場はいくつあるのだろう。それでもロシア国内のレーニン像は取り壊しが進んでいるそうだ。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

北海道から154km、隣の国はロシア。 [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

1905年、ポーツマス条約により樺太島(ロシア名:サハリン)北緯50度線以南は日本領土に、樺太と命名。日本人の入植が始まる。それから40年の間、南樺太は木材、石炭、漁業など豊富な資源に恵まれ、発展していく。終戦時には約40万人もの人口がいた。(香川県高松市2008年8月の総人口約42万。)

第二次大戦末期、日本本土最後の地上戦があった。
ソ連軍は終戦間際の8月9日に50度線国境を越えて南下を開始。日ソ中立条約を破棄した一方的な攻撃だったが、すでにヤルタ会談においてソ連の対日宣戦が約束されていた。連合国(アメリカ、イギリス)も容認していたソ連軍侵攻で樺太は大混乱。日本軍の武装解除も遅れて民間人の犠牲者は戦後8月15日からの方が多い。

詳しくはウィキペディア『樺太』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA#.E5.9C.B0.E7.90.86_2

その1905年からの40年、日本を出発し新天地を求めて樺太へと渡っていった移住者たち。現在はもうなくなってしまった日本の町がある。100年前の日本人は同じ海を見て、不安と、野心を持って渡っていった。深い青色をした海。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (21).jpg
2等客室でウトウトしていたら出航の時には晴れていたのに、少し霧が掛かってきた。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (20).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (7).jpg
向こうに見えるのはサハリンの陸だろうか。ちなみに北海道宗谷岬とサハリン州クリリオン岬(日本名:西能登呂岬)の間は約42kmしか離れていない。稚内~コルサコフのフェリーの航路は159km。

また北海道とサハリンを橋かトンネルで結ぼうという計画があるんだとか。
北海道新聞より、すでに削除されているようだが。
http://www.nikken-times.co.jp/new/20080830.1/1220027760.html
地盤の状態にもよるが、技術的には問題ないだろう。それにしてもすごい計画だ。またサハリンとロシア本土をつなげると日本はユーラシア大陸と陸続きになる。

稚内~コルサコフ08年9月1日 (22).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (8).jpg
2等客室の中。雑魚寝ができる。1等は椅子席と和室があるそうだ。

船弁サハリン.JPG
これが俗に言う『船弁』。おかずは北海道の海の幸中心でうまくて満足。『駅弁ひとり旅』って漫画で取り上げていたと思う。うろ覚えですが。イカの詰め煮がおいしいよ。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (24).jpg
ようやく港が見えてきた。コルサコフ(旧大泊)へ。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (25).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (15).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (16).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (18).jpg
いよいよ入国です。さすがロシアだけあって入国審査は時間をかけます。入国の時には電子機器の持ち込みを申請しないといけなく、乗船中にそれを申請用紙に書いておかないといけません。しかし手荷物はX線検査もありません。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (19).jpg
コルサコフ (1).JPG
ロシアカレンダー.JPG
ロシアのカレンダーは変わっていて曜日が縦にあります。横に曜日があるのもあるんですが、こちらがの方が一般的のようです。
コルサコフ.JPG
稚内~コルサコフ08年9月1日 (27).jpg
もう夕方、外に出た時は肌寒い。でもサハリンっ子たちは元気。ロシアでは短い夏を楽しむんだそうだ。
コルサコフ (2).JPG
これからユジノ・サハリンスクまで車で一時間弱。ホテルで一泊。明日はユジノ・サハリンスク(旧豊原)観光です。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

北の果てよりさらに北へ。 [サハリン・樺太旅行記(08年9月)]

関西空港から一日一便しかない飛行機で北海道は北の果て、稚内へ。
8月末にして、日中(到着時は曇っていた。)はかなり涼しい。朝晩はT-シャツだけでは寒いくらい。
バイカー、ツーリストがちらほら。この場所には将来バイクで来たかったのだが、早くもこんな機会に遭ってしまった。北海道は北の果て。

一泊してサハリン行きフェリーと今回のツアーメンバーの待ち合わせの為、稚内をブラブラした。
稚内はかなり寂しい印象。でも日本の『北の果て』なんだから、自然と人がやってくる場所でもある。でもそれは「旅行者」に限定したものなんだろう。稚内駅周辺はめったやらとホテル、旅館民宿がある。寂しい感じがするのはシーズンの終わりで人がいないからか。

稚内08年8月30日.jpg
稚内の名所、北防波堤ドーム。週末になるとよくイベントをやっている。
そもそも樺太行きの船が停泊する所で、貨物や旅客列車がここまで伸びていた。中には稚内浅橋駅があった。ということはここが最北の駅であったという場所。戦後、樺太の行き来も出来なくなったので駅も無くなってしまう。
稚内08年8月30日 (1).jpg
稚内08年8月30日 (6).jpg
稚内08年8月30日 (7).jpg
テントを張るツーリストもちらほら。雨風が防げていい。僕も将来厄介になるかもしれない。
稚内08年8月30日 (10).jpg
稚内08年8月31日 (2).jpg
一泊して次の日。本当にガラーンとしている。
稚内08年8月31日 (1).jpg
稚内08年8月31日 (3).jpg
稚内08年8月31日 (4).jpg
稚内08年8月31日 (5).jpg
稚内08年8月31日 (6).jpg
<鉄>なら一度は来たい。日本の最北の地。稚内駅のレール止め。
稚内08年8月31日 (7).jpg
稚内08年8月31日 (8).jpg
稚内08年8月31日 (11).jpg
稚内08年8月31日 (12).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (32).jpg
メンバーと集合して一泊。ターミナルで出国審査を。そして出発。船は『アインス宗谷』。船の中はサハリンに帰るロシア人の方が多かった。日本人船客は我々ぐらい。大きな地デジ対応テレビを買ってる人もいたけど、ロシアでも始まるのだろうか。デジタル放送。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (1).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (10).jpg
稚内~コルサコフ08年9月1日 (6).jpg
出航。船で外国に行くのは初めてだ。5時間30分でサハリン州コルサコフ港に到着する。
稚内~コルサコフ08年9月1日 (2).jpg
さよなら日本。日の丸が寂しく揺らぐ。まだ日本の船の上なんだけど、飛行機で出国するより別れ方が寂しく感じる。
さようなら~さようなら~。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行
- | 次の10件 サハリン・樺太旅行記(08年9月) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。