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中国旧満州日本史跡の旅 [日記]

旅行から2週間経ちました。今回の旅はほとんど中国東北部の1932年~45年当時、満州国があった日本の史跡の旅でした。
20世紀初頭のこの地域は日本、中国、ソ連、朝鮮、モンゴルなど、国家の策略に事件、紛争とう混乱渦巻く重々しい時代でもありました。
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旅の工程は大体に大連→哈爾濱(ハルピン)→長春→瀋陽→丹東→大連でした。
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2011年に温州市で起こった鉄道衝突脱線事故で有名になった中国版新幹線CRHの現在は平穏そのもの。当時は事故後の政府対応に驚愕した人も多いのでは?
旧正月も終わって混み合いもなし。駅は巨大でオープンな作りだが車両が到着してからでないとプラットホームの中には入れない作り、金属探知機あり。磁気チケットかと思ったら『モギリ』だった。
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ハルピン市内は現在マンション建築ラッシュでガイドさん曰くここ5年程で見たこともないスピードで高層マンションが建っているという。筍のように驚きの成長だが敷地に密集していてなんだか危なっかしい。中国の3年間のコンクリート使用量はアメリカの100年を超えているという。
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聖ソフィア大聖堂。日露戦争後2年後の1907年にロシア人商人の出資によって建築。ハルピン市内は洋風建築も相まって異国情緒が漂う中国でも異質な空間。
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スターリン公園を歩く中国人民解放軍、陸軍の恰好をしているが消防の訓練で駆り出された一般市民も混じっている様子。おばちゃんも若い子もいたし、この列後方から普通の恰好をした市民も行進していた。
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ハルピン市内の歩行者天国の人混みは凄かった。スリが多いと気をつけていたが海外ではどこでも注意が必要。ファッションも特に変とは思わないが色は派手なものが多い。これも海外では当たり前か。
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ハルピン駅外観。シベリア鉄道から東清鉄道へと延びる線はここハルピン駅を中継する。ここで1907年、初代内閣総理大臣、伊藤博文が安重根によって暗殺される。韓国政府により、駅の隅に安重根義士記念館が最近になって完成したが、中国の若者にはほとんど知れず、日本の抗議や中国政府の許可云々などで現在閉鎖中。
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満州の首都があった新京(現在は長春)の満州国映画協会。『日満親善』、『五族協和』(日、満、露、朝、蒙)、『王道楽土』を謳った国策映画を数々排出。李香蘭(川口淑子)は当時の看板スターだったが2014年に亡くなる。
映画協会の第二代理事に甘粕正彦(元憲兵隊隊長、関東大震災のドサクサに白色テロを起こした右翼。陰で満州国を日本政府の意に応じて実質的に支配していたとも。)は二階中央の局長室から社員の出社を監視していたという。実際はスタッフや俳優に優しく評判はよかったらしい。
現在では長春電影制片廠になってここでも政府の審査が入る映画が配給されるようになった。
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長春、満州国当時は新京の東本願寺。現在は敷地内が駐車場にされているが国の文化財保存指定が決定され、これから修復工事がなされる様子。だが、こういった日本史跡は共産党政府から煙たがられる存在なのは中国どこでもそうだという。
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中国では総じて満州は偽満と表記されるがここは偽満州国皇帝溥儀の仮御所。溥儀の住む場所と聞くと広大なものと思ったが使いやすいようにまとまった印象を持った。ちょうどウイグル系の観光ツアーが来訪中だった。
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世界遺産の瀋陽故宮博物館の玉座。初代清国皇帝モンゴル系のヌルハチと二代目のホンタイジの故宮で規模は広いがそれほどでもない。モンゴルのゲルの様式と中国の建築が混ざっている。
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北朝鮮との国境の街、丹東、旧安東。朝鮮戦争時は北朝鮮を後援する中国軍の軍事物資がこの鴨緑江断橋を渡って輸送していたが、米軍がこの橋を空爆、橋は落ちて復旧間もなく停戦。列車の単線橋だったので複線橋を隣に作り、落ちた橋はそのままになった。
現在では中国各地から北朝鮮の国境を見に来る観光地。中華人民共和国が建国されてすぐの戦争なのでもちろんここは重要な場所でもある。遊覧船にも乗ったが中国の建築ラッシュに北朝鮮の殺風景な違いが印象的だった。
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中国と北朝鮮の国境は鴨緑江で別れているが近いところでその幅10m。『一歩跨』は最も近い国境。中国人民解放軍の兵士が近くで監視がある中、向こうの北朝鮮側でも遠くに監視塔から脱北者がいないかこの国境を監視していた。最近でも脱北兵士の殺人事件が起きているので双方警戒している。
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日露戦争では最激戦地の203高地は実際は206m。砲撃の激しさから3m低く成り、山の形が変わったという。あれから丁度110年、現在では植樹されて緑が生い茂り、頂上から旅順港は見れるが見晴らしはよくない。右の道に戦死した乃木将軍の次男保介の墓があるらしいが時間がなく、見れなかった。ロシア人、中国人もほとんど来ない日本人だけがよく来る観光地。画像は旅順港のある東側。
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日露戦争の一番有名な写真、乃木将軍とステッセル将軍の水師営の記念写真は旅順港から近い中国人農家の敷地を囲う石垣だった。この水師営の会見場は再建されたものだが歴史的写真の一枚の場所に立つのは改めて感動した。現在はナツメの木が植えられている。これも4代目とか。上の画像の撮影日が2015年5月31日。下が1905年1月5日。
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満州国崩壊でそこで暮らしていた日本人の引き揚げ者はここ大連港第三ふ頭の桟橋から復員船で出発。3日かけて舞鶴、下関港に向かってようやく日本の地を踏んだ。朝鮮経由もあるがその数数十万。
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大連、ヤマトホテルの高級応接室。満鉄の経営で莫大な富を持って作られた豪華絢爛な建築内装で現在でも共産党員がレストランで会食するところでもあるが、ここは何かと反日のはけ口にはされない。写真撮影は制限されることもあるが、特に人を撮るなといわれた。(共産党員と癒着している人物がバレるので次の日には圧力で逮捕されることもあるという。)
江沢民も村山総理も座ったという会見の場でもある。

以上で大体の旅行工程です。毎日の中華料理に飽きたこともあったけど、そこはさすがの中国。どれも食べれないほどではなかった。
日本と中国の関係はやはり満州が重要だったわけですがそんな中国東北部の旅でした。
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